21世紀の繁栄譜

平成11年11月27日(金曜日)

第1章 この国のかたち

松下政経塾の設立理念

 松下政経塾は、@ 新しい人間観に基づく政治・経営の理念を探求することと、A そのための人材を育むことを目的として創設された。理念がなければ社会の発展は望めず、人材が育たなければ理想の遂行は不可能である。同時に国は、国家経営の理念を不断に探求する機構が必要であり、その理念に基づいて行動する志を持った人材を供給するシステムを持っていなければならない。
 現在の日本の混迷は、理念や戦略をシステマテイックに組み上げる機構を持たないところから発している。また政界の人材供給が硬直化していて時代の変化に素早く対応できないことも大きな問題だ。
 私たちは、この根本的な課題を解決することを第一の優先目標として行動してきた。もし政権を担当することになれば、より広範な国民の支持を得て、問題に取り組むことが出来るようになる。「総理になれば何をしますか」と問われれば、私たちは個々の政策課題に踏み込む前にまず「国家理念の探求」と「人材育成」を取り上げるだろう。
 私たちが理想とする「国のかたち」は、どのようなものか。そして現在のそれは、どのようなものに規定されているか。

戦後変わったものと変わらなかったもの

 戦後7年間の米軍占領下を経て、さまざまな機構改革が進められた。財閥解体、新憲法起草という一連の「民主化」。日米安保条約締結と米ソ対立の中での復興。その後の経済成長のめざましさ。21世紀は日本の時代とまで言われた80年代だが、バブル崩壊後は長期低迷にあえいでいる。90年代末、閉塞した空気が国全体を包んでいる。
 この半世紀が前の半世紀とは明らかに違ったものは何だろうか?そして敗戦にもかかわらず変わりなく存在したものは何だったろうか?これを冷厳に分析することが、次なる日本のかたちを探る上での前提となる。
 明らかに変わったものは、わが国が安全保障だけでなく、枢要な意思決定までも米国の大きな影響を受けるようになったことだ。カーター政権の大統領補佐官であったブレジンスキィーがフォーリン・アフェアーズの中で日本をプロテクタリアット(保護国)と表現している。デバイド・アンド・ルール(分割統治)という統治手法があるが、安全保障問題についても国論が二分している戦後の日本は、まさに他国の「統治しやすい」環境にあった。強大な核の傘の下、国際政治の意思決定は米国に委ね、拡大するパイをいかに分配するかに政治が血眼になっていた時代。政治の役割が矮小化され、政治家は最も尊敬しにくい対象さえ言われた。
 一方、変わらなかったものは、なにか。その典型は中央官庁を中心とした集権制度がそのまま残ったことだ。官僚機構は、国民主権のもと国民全体に奉仕することとなったが、「中央に高い価値があり、地方は低く」「官が高く民が低い」という意識は、依然として色濃く残った。その後、公害問題等を始めとする「市場の失敗」を補うために様様な規制が敷かれたが、この規制は同時に「官」の権限を強化する結果を招いた。構造汚職をはじめとする「行政の劣化」は、三権分立の制度創設時にすでにこの創設者である江藤新平自身により予見されている。江藤は、自己増殖を続けるだろう行政権力に対抗して@ 意識的に司法権と立法権を強化しなければならないこと、A その仕組みを制度的にビルドインしておかなければならないことを説いている。一世紀以上経た今日、江藤の指摘したことが、まさに突きつけられている。

ネットワーク社会における国のかたち
 これから創る国のかたちを考えるとすれば、もう一つの劇的な変化にも言及しておく必要がある。それは人々のコミュニケーションの革命と呼んでいいほどの劇的な変化である。150年前に発明された電話は、まだ世界の半分の人々がこれに触れたことも無いという事実を留保しても世界との距離を飛躍的に縮めることに大きく貢献した。ことに地上波を中心とするマス・メデイアの発達は、人々が暮らしに必要な情報を自らの属する共同体からではなく全く別の媒体から摂取するという変化をもたらした。このことが「国」の概念を変化させる大きな要因になっていることは間違いない。
 加えて今世紀末に始まるインターネットを中心としたIT革命は、さらなる意識の変化を生み出した。通信手段の発達により通信速度が飛躍的に向上し、瞬時に情報が世界を駆け回るようになった。膨大な情報の流通の中で、もはや一国のみが垣根で情報の戸を立てるようなことはほぼ不可能になった。ここで重要なのはコミュニケーションのスピードの変化が情報の決定的な質の変化をもたらしていることだ。どこからでも誰でもいつでも瞬時に情報にアクセスできる社会の到来は、新たな社会のパラダイムチェンジをも突きつけている。
 しかもこれまで一人の人間が情報を発信しようとすれば、膨大なコストがかかっていたものが今では、ボタン一つでネットワークにつながる無限大の人に発信できるようになった。この双方向性ネットワークは、「個人個人がパーソナル・メデイアを手にする」時代の到来を意味した。
 勿論、この劇的な変化は光だけを伴うものではない。例えば、かつて自分の土地を柵によって囲い込んだように、情報により多くの財を囲い込むことも現に起こっている。(情報のエンクロージャー)一部に情報が偏在すれば、これを持つ者と持たざる者とでは得られるチャンスに格段の開きが出てしまう。コンピュータのOSの寡占化は、人々の思考形式まで規定しかねない。

自己同一性を鍛えるときが来た

 このネットワーク社会のキーワードは、「瞬時に無限大」であり、そこで必要なのは、自らの判断で情報を取捨選択できる「自立性」と「多様性」である。膨大な知的情報の流れを利用しようとすれば、最も必要とされるのは自らのよって立つスタンスである。もし足場が無ければ情報の洪水に流され、神経さえもすり減らしてしまう。世界が狭くなり、国境が小さくなればなるほど自己同一性が問われてくるのと同じく、自らのよって立つ理念が重要になる。
 民族や宗教、国家を超えたコミュニィケーションが発達すると、それぞれの違いを乗り越えた連帯が生まれてくる。EUの例を持ち出すまでもなく、国境の垣根もいずれ取り払われる日も遠くないだろう。そこに至る過程で問われてくるのも国としての自己同一性である。国際化は、幾つもの言語を操るところから始まるのではない。自らの言葉で自らを正しく語ること、自らの文化や伝統を知るところから始まる。顔の見えない相手との会話は、信頼を積み重ねることが難しく、不安をかき立てる。スタンスの定まらない国との交渉は、疑いを生み無用の軋轢を生じてしまう。
 私たちは、何を大切にしてきたか?何を理想としているのか?そしてどんな国を目指すのか?このことを自らの言葉で明らかにしなければならない。新しい枠組みに基づき、「自己同一性を鍛えていく時」が来たことを政治が意識しなければならない。


第2章 新しい政治のコンセプト 21世紀の繁栄譜

PHPからPHPへ
 松下幸之助氏はかつてPHP運動(PEACE AND HAPPINESS THROU PROSPERITY)を提唱した。この運動は、繁栄を通して平和と幸福を願うという、近代日本の経済復興と自由を重視する時代背景に相関して現在でも多くの賛同者を得ている。そこには自由主義市場に基づく経済活動が保障されることによって、人類の平和と幸福を追求していくいわば資本民主主義の原型を見ることができる。
 これに対して社会民主主義は、むしろ皆が平等であるという幸せを通して繁栄と平和を築くという点で力点の置き方が異なっている。自由主義が、人間の 努力や競争という本質から発しているのに対して、社会主義は、水平性というか人間の平等でありたいという願いから発している。(PEACE AND PROSPERITY THROU HAPPINESS)
 このように相対化して考えると、この二つは、ともに人間の基本的欲求の一定の方向性を思想化したものだということが判る。本来ならばこの二つは対立概念ではないはずだが、抜き差しなら無い東西対立の根拠とされてきたことは、不幸な歴史の事実である。
 1989年の、ベルリンの壁の崩壊以後、こうした対立にもようやく一つの区切りがつこうとしている。現在を脱イデオロギーの時代と呼ぶ人もいるが、実はこの「対立概念の共同幻想」に代わるものを世界が見出していないだけかもしれない。エアーポケットのような時代、過渡期と言っても良いだろう。次なる時代を力強く築いていくためには社会の根本原則が必要だが、それを模索してもまだ見つからずにもがいている時代。それが今なのかもしれない。

THROU PEACE

 次の時代を導くキーワードは、まだみつからないが、そのヒントは「THROU PEACE」という言葉で集約できるのではないかと私は考えている。すなわち「平和」「生きるための地球環境」「お互いが支えあうための内面の環境」この3つのPEACEを実現することに主眼を置いた民主主義。(PROSPERITY AND HAPPINESS THROU PEACE)繁栄も地球環境あっての繁栄であるし、経済成長も人々の心の安定を前提としたものでなければ意味が無い。ましてや資源の分配等を巡って争うなどという発想は、このPEACEに主眼を置く考え方からは出てこない。
 資本民主主義でも社会民主主義でもない民主主義の萌芽。(これを平和民主主義もしくは環境民主主義とよんでいいかもしれない。)この考え方を思想的に体系化したときに次の世紀を導く根本原則が見つかるのではないだろうか。

新しい政治のコンセプト

 この新しい民主主義の実現のために、政治や政党の形態もおのずと変化を強いられる。既にこれまでの党員という概念には多くの国民が違和感を持っているし、党の束縛は敬遠される傾向にある。古色蒼然とした政治形態や十年一日のように変わらない選挙運動にも多くの国民が背中を向けている。政党自身が生まれ変わる時が来ているのだ。そもそも政党は、権力の対抗して誕生している。政党の歴史は、権力による弾圧を経て、無視、承認、憲法的編入に至るとされる。(わが国でも政党の規定は、憲法の中にはない。)ファッショを許さず、健全な民主主義を育むためには、政党を鍛えることが肝要だ。しかし現状ではそれに応えているとは言い難い。
 多元的な国民の意見をいかに早く的確につかむか、そしてそれをいかにスピィーディ−に統合するか。例えてみれば、インターネットのプロバイダーのように多くのアクセスポイントを持つ柔らかなネットワークが必要とされているのだ。
 さまざまな多元的な価値観の差異を認めながら、明確で透明性の高い合意形成の仕組みを持つ、新しい政治のコンセプト。その特徴は、一部の支持母体や既得権益が決定権を持つ縦社会ではなく、組織を超えた緩やかなヒューマンネットワークが幾重にも重なる横社会にある。人材の流動性が高く、自己責任と自由な発言環境のもと、それぞれの個性が遺憾なく発揮できること、競争システムと相互互助機能が調和していること、情報がオープンで共有意識が高いことなどだ。
 「国民主権の理想にしっかりと立脚した政治のネットワークを創造し、人材供給のシステムを再構築する。」このことこそが私たちの最大の課題である。この創造と再構築によって私たちは、「民主主義を育む戦い」に勝利をおさめていかなければならない。


第3章「人が人であるために」

人が人「であるために
 
 第2章で述べた「環境民主主義」は、突き詰めていくと「人が人であるための」政策にいきつく。生きるために私たちには「攻撃性」が備わっているが、近年の人間工学の発達によってこの攻撃性を発露するときは、一部が自分自身にも向けられることが解ってきた。他人への憎悪や攻撃が自らの遺伝子までも傷つける場合があるのだ。
 かつて私は松下幸之助塾主に「何故イランとイラクが戦うのか」「宗教の違いによってどうして傷つあけうのか」と尋ねられたことがある。人類が自らの本質を理解していたなら、20世紀のような大量殺戮の世紀はありえなかったのではないだろうか。戦争という人を人でなくする力は同時に自らをも人でなくる力であることを私たちは既に知っている。
 「人が人であるために」最も愛されていいはずの命。親から奪われた命。虐待を受けたこどもたちの瞳は凍りついている。無残にも会社から放り出された家族。土地転がしに踊ったもののつけが国民生活を圧迫し、公的部門が猛烈な勢いで劣化を続ける。民族浄化という大儀名分のもと祖国を奪われた人々。わずかばかりの食糧に並ぶ人の群れ。チェックをする者がされる者と癒着して悪事を包み隠す。「優秀なインサイダー」を頼れる政治家とは言わない。
 貧困との戦い、抑圧や差別との戦い、暴力や戦争の廃絶。私たちは、様々な場所で「人を人でなくする力」と戦っている人を知っている。世界の各地で同じものと戦う人たちとの連帯があることも。
 そして自らが「人が人であるために」戦おうと決意している。

SAMHALL
 その一例としてここでは、スウェーデンの社会福祉事業団SAMHALLの事例をあげてみる。
 1999年夏、ストックホルムのサムハルという会社を訪れた。人口890万人のスウェーデンで社員数30,000人のサムハル。そのうち90%が「チャレンジド」(神から挑戦すべき課題を与えられた人々:障害者)である。体に挑戦すべき課題のある人々だけでなく、心や知能に障害のある人達が同じ職場で互いを支える。所得は、一般的なスウェーデンの労働者の85%。年間売上は、5、000億円を越える。
 生み出している製品やサービスも様様だ。スウェーデン国内800箇所の事業所で雇用形態は多様性に満ちている。
 「何故このような企業がなりたつのか?」
 ストックホルム郊外のABB事業所。明る清潔なファクトリィーに入ると、人々の生き生きとした表情に出会う。製品詰めを担当する者、宛名を書く者などいくつかのチームで作業を行っている。
 「企業が中心にあるのではありません。人が中心です。」「できないことを着目するのではありません。それぞれの人のできることが大」「仮に全身が動かなくても目線さえ動かせれば、それはチャンスです。」
 企業が企画をはめて、それにこたえられる人間が就業するという形態とは正反対のものがここにある。あくまで中心は一人一人の人なのだ。それぞれの人の可能性に応じて仕事が組み立てられていく。

チャレンジドをタックスペイヤーに
 この「温かな人間中心主義」のなせる奇跡に松下幸之助さんの面影が重なる。そして人が人であることの意味を考えさせられる。福祉は与えられるだけのものではないはずだ。
 自らが就労して、納税者になる。その喜びがこのサムハルには満ちている。
 「チャレンジドをタックスペイヤーに」
 これはJ.F.ケネデイの大統領選挙における公約である。
 様様な逆境を跳ね返し無限の可能性を示した松下さん。どんな苦境でも「人間」を大切にした松下さん。可能性に挑戦する人達の偉大さに触れるとき松下さんから手渡された「温かな力」がふくらんでいくのを感じる。


第4章 政権政策

国民との約束と説明責任

        ・cut class sizes to 30 or under for 5,6 and 7 year-olds
        ・fast-track punishment for persistent young offenders
        ・cut NHS waiting lists by treating an extra 100.000 patients
        ・get 250,000 under-25 year-olds off benefit and into work
        ・no rise in income tax rates

 これは、ブレアカードという英国労働党が前回の選挙で国民と交わした公約である。サッチャー革命が、競争原理の徹底と自由主義の貫徹を目指したのに対して、雇用や医療という将来に対する不安が国民の間に高まっていった。その不安を解決するための具体的な政策の道筋を示したのがブレア政権だが、このカードはその政策の提示の仕方を象徴的に表している。すなわち英国が「どのようにしてどういうセーフティーネットを何時までに準備するか」ということを国民との約束という形で示したのである。
 私たちは、このように自身の政権政策を国民との契約として提示していきたいと考え、準備を進めてきた。国民が約束や公約がしっかりと守られたかどうかを確認できるための指標の準備も整えつつある。もはや古い政治がお得意としていたような争点をぼかしたり、抽象的なスローガンを並べただけの「政策提示」では国民が満足しない。政策の評価を、@戦略レベルA政策レベルB業績レベルでしっかりと説明する責任を政治が問われているのだ。その政権が何をする政権なのか。そしてその政権のマニュフェスト(政策の体系)は、何なのかが厳しく問われなければならない。
 よらしむべし、知らしむべからずという政治は、高度情報社会においてさらにその危険性を増す。有権者一人一人が政策を判断する基準を学び、厳しく主権者としての義務を果たすところから真の民主主義が育まれる。

政権政策の道筋

 私たち自身が、現在政権を担当したと仮定したときに示す道筋は、およそ次のようなものになるだろう。
・ 8000,000人のチャレンジドを納税者にする。
・ 憲法99条委員会を創設して、国会の憲法尊重と遵守機能を強化す る。
・ 教育に対する満足度を現在の3倍に引き上げる。
・ 行政府の人員の半数を立法府に移転して、国民主権の徹底をはかる。
・ 技術革新指標をつくり推論機能人口知能開発を中心とするIT戦略 で2010年までに「知的財産権立国」を確立する。
・ こころの危機管理を所轄し、内面の環境対策をはかる「教育環境省」 を創設する。
・ 司法試験合格者の数を現行の倍に増員し、合わせて法曹一元化を実 施する。
・ 18歳未満の子ども、女性、チャレンジドなどに対する暴力は、一 等重い罪をもってこれを罰する。
・ グループホームを全国2万カ所(中学校区に二つ)創設する。
・ 食糧自給率目標をカロリーベースで50%におき、農業・農村を守 る。

 ここでは紙面の関係上外交から医療、税制まで全てを提示することはできないが実践ではマニュフェスト(政権政策集)の形で全体像を示していくつもりだ。痛みを伴うことでも耳障りの多少悪いことでもあえて国民に提示して協力を得ながら改革を進める。このことが何よりも重要であると考えている。それは「自由で安心できる社会」「人が人であるための社会」を創るための政策集である。
 ここでは、そのうち「憲法」「教育」「経済・財政政策」「外交政策」の4つに限り若干の考えを述べておきたい。

憲法について
 新しいアイデンティティーが求められている時代に自らの国の基本法を自らの言葉で起草する作業は、とても重要な意味を持つ。国民の知る権利や環境権を憲法に盛り込むことは、民主主義を育み「人が人であるための」政策を遂行する上で大切である。憲法9条の平和の理念にしても国際法と照らしてわかりやすく書かれる必要があり、初めて憲法に出会うときに戸惑うような条文がもしあるとすれば、そこは正していくべきだと私は考える。
 憲法については、長い間、護憲と改憲の2分法的な論争が繰り広げられてきたが、視座を変えて自らの基本法を自らが創造する「創憲」の立場に私たちは立っている。1999年に国会に憲法調査会が設けられることが決定した。憲法にどう向き合っていくかは、政治の基本姿勢の根源的な課題である。私は、この憲法調査会の設置に伴って、第99条委員会を設置することを唱えている。憲法第99条は、憲法の尊重・擁護義務を定めた基本規定であるが、国会はまずこの尊重・擁護義務から検証する義務を負うと考える。
 どのように憲法が守られているか、守られていないかこれを判断するのは一義的には最高裁判所をはじめとする司法の役割である。一方、国会審議の中での違憲、合憲の判断は、内閣法制局長官に答えを求められることが多い。立法府が憲法判断について自らその役割を放棄して、それを行政府に求めることがあるとすれば、どんなに理想の憲法を造ってみても主権者たる国民の期待にまじめに答えているとは言えないのではないか。
 憲法というとすぐ第9条を持ち出すむきもあるが、まず国会自らが第99条を検証することが先決だ。新しい服を着替えるように憲法を論じることは厳に慎まなければならない。国会が主権者である国民の信頼をしっかり得ているか。政治改革が進み民主的な合意形成のプロセスが確立されているか。政治浄化の厳しい試練を経ることなくして「創憲」は、不可能であるし、「品性の高い政治」なくしては国の基本法を論じる入り口にさえ立てない。

教育のルネッサンス

 シンガポールの建国の父リー・クァン・ユー元首相は、マレーシアからの独立を決意した時、@品性の高いものA智徳の備わったものB人間性豊かなものという3つの基準を基に新しい国家建設のための人材を登用した。エルギーの多くが人づくりのために注がれた結果、シンガポールは世界有数の通商国家に成長した。ごみ一つない街、犯罪の少なさ。世界からのシンガポールに向けられる尊敬は、その経済発展だけに向けられたものではない。
 時代が激動し、これまでのパラダイムが力を失っている現在、先の見えない時代だからこそ教育を最優先すべきである。健全な民主主義が変化の芽を必要としているのと同様に社会の発展は、たゆまない創造と多様性から生み出される。
 1ドル教育費を削減すると社会はそのツケを7ドル分払わされるというが、今こそ次代を担う子どもたちの教育に力を注ぎ込むときだ。それも現在の硬直化して満足度の低い教育ではなく新たな教育のルネッサンスを行った上での大規模な教育投資が求められる。
 現在の教育、ことに学校教育は、管理型で自由度が低いために多様性や柔軟性に欠けている。北海道の子どもたちも九州の子どもたちも同じ時期に全く同じ内容を同じように学ぶ。これでは、教える側も学ぶ側も創意工夫が入る余地が無い。カリキュラムにしろ、教え手にしろ選択の自由がない。江戸や明治に個性豊かな寺子屋から驚くべき才能が生み出された原点に帰るべきだ。子どもたちが学ぶ歓びを知る前に学ぶ辛さを知り、教育を受ける楽しさに気づく前に虐められる怖さに震えるならば、国は間違いなく衰退に向かう。
 「人が人である」ことの本質にたって教育を組み立て直す時が来ている。例えば人が瞬時に知覚できる数は、7+−2である。それを遥かに超える情報を詰め込もうとすれば子どもたちの顔は抑圧に引きつってしまう。心理学や人間工学で判っている事が教育の現場では往々にして無視されている。
 自らを導く自分(超自我)の不全によるさまざまな人格の歪みも問題だ。境界性人格障害を始めとする障害が若い人に深刻化している。政治が心の危機の問題に真正面から取り組むときが到来している。教育の自由分権、教育の復興の道筋を示すことが政治の大きな使命である。松下政経塾が販売実習や工場実習など第一線で働く人々を最も重視したように、また自習自得で自らを導く自分の形成を大事にしたように、「生きる」ことを最も大切にした教育のルネッサンスに果敢に挑戦していきたい。

経済・財政政策

 財政構造改革で目標とすべきは,単なる支出のカットではなく、不透明な政府歳出の排除であり、国民のウイッシュリストとも乖離を是正することだ。さらには、巨大な財投の矛盾を改革することであり、相次ぐ特例で複雑になりすぎた税体系を簡素化して、歳入構造に大鉈をふるうところに主眼をおくべきである。
 1997年の財政構造改革は、手法とタイミングを謝ったための日本経済に大きな痛手を負わせ、かえって財政赤字を増大させる結果を招いた。
(共著 政策不況脱出の道筋 東洋経済社もしくはホームページ参照 http://www.haraguti.com/l2.htm
 平成11年度の国債発行額は、31兆円で国家財政は破綻の危機にある。超低金利政策により、年金生活者を始めとする国民生活に甚大な影響が出ているが、巨額の税金を投入したものの不良債権問題は、解決とはほど遠い。信用保証協会の融資枠拡大も大手銀行の不良債権の肩代わりに使われて、中小企業への貸し渋りは依然として厳しい。急速な信用収縮と失業、倒産、自殺者の増大。
 歴史を見ると世界最大の債権国が膨大な財政赤字を貯め込み、過剰な設備に悩みながら低金利政策をとった事例は無い。大英帝国末期、世界恐慌後の米国がこれに類するが、規模が違う。しかもこの二つの国は、その後大きな戦争を経験している。過剰な投資や設備は戦争により吸収されていくが、その背景には不況が生み出した暗い人心があったことを忘れるわけにはいかない。

経済再建なくしては財政再建なし
 実質経済成長を一定軌道に乗せるまでは、歳出構造の質的転換を図りながら慎重に経済政策を行うべきだ。政府支出を依存型から自立型に転換していくためには、雇用状況の一層の悪化を避けるために公共事業の量は維持しながらコストを低減させる施策が必要である。
 リストラを推進する法案が成立するなど「過剰労働力」の削減を徹底的に行おうという空気が強いが私は異論を唱えている。一人の職が奪われるときどれくらいコストを社会が支払わなければならないか。特に均質性が高いわが国の社会は、失業の増大に敏感に反応する社会である。完全失業率が5%を超えるとき、その実質的影響は、欧米の10%失業に匹敵するという説さえもあるほどだ。
 知的財産の市場の創設や科学技術のイノベーションでこの苦境を乗り切るべきであり、安易な首切りは、社会に回復不能な傷を残す。いわゆる3つの過剰削減を唱えている者は、「資源が一定で技術革新指標も上がらず労働人口が減少し高齢者人口を支えきれなくなる」と言う。SAMHALLの例でも明らかなように労働力には、眠っている部分が多い。「人が人であるために」の経済政策を構築しなければならない。

安全保障政策
 右か左か、保守か、革新かということで長い間国論が分裂したテーマである。安全保障で国論が分裂するのは、望ましい姿ではない。国民の生命と財産を守る最大の福祉である安全保障政策は、適格な情報収集と戦略に基づいて組み上げられるべき現実的な課題である。わが国の安全保障政策の前提は、まずこの「腐った二分法」を抜け出すところから始まる。
 新ガイドライン法が成立したがこれは日米の共同オペレーションの部分を法制化しただけのものであり、わが国独自の国民の権利を守る緊急事態法制は提出準備が整った段階である。日米安保条約に基づく地位協定見直しやいわゆる「おもいやり予算」の見直しも急務だ。東西冷戦の集結で、日米安保も変質を免れない。多国間安全保障と国連を中心とした安全保障の問題にも高度の戦略性が求められるようになっている。
 親米か新中国かという新たな二分法に陥ることなく、米国のグローバリストの中、それぞれスタンスをともにする者との信頼関係を密にして危機管理を含めたインテリジェンス・コミュティーを形成し、冷戦後の威に対抗しなければならない。
ことに唯一の核被爆国としての日本の役割は大きい。米国上院のCTBT批准拒否を決定した今、グローバルな大量殺戮兵器の軍備管理・軍縮レジュームの再構築が迫られている。
 「人を人でなくする」力を決して許してはならない。積極的な核軍縮の代案とその具体的プログラムを日本が提示すべきである。安全保障の概念は個別防衛、集団防衛から集団安保を経て、協調安保(cooperative security)へと進化している。狭隘な国土に高い人口密度のわが国が、真の安全保障を確立するためには非核3原則の国是を堅持し、協調安保の政策を選択することが何より「現実的」な選択だ。

結びに

 この小論は、「人が人であるため」の基本的な政策スタンスを述べたものである。その原点は松下幸之助塾主の新しい人間観にある。「人間は万物の王者である。」と塾主が述べる時、そこには人間の可能性に対する万感の信頼がある。人類がその本質に深く思いを致すときに新しい地平が見えてくる。古い政治の常識を常識としない清新な志のもとに暖かな社会が築かれる。私たちはこの理想に向かって今日も格闘を続けている。塾主は勿論のことこのような学びの機会を与えてくださった故丹羽副塾長、新井理事長、宮田塾長はじめ多くの方々に感謝を捧げたい。