2011年07月24日(日)
核の傘・公開され始めた真実

 
 最近、米公文書が公開され、原爆投下後の日本にどのような「政策」がとられたかが明らかになりつつあります。

1954年3月1日、太平洋ビキニ環礁で米国が行ったブラボー・ショットの水爆実験では、何もしらされないまま、多くの人々が高濃度の放射能に曝されました。核を保有し、その精度や性能を高めていくうえで核実験は必須のものとされていた時代のことです。国家安全保障の名のもとに無辜の市民が自らの健康と命を奪われました。

このブラボー・ショットの水爆実験で静岡の漁船「第五福竜丸」乗組員も被曝しました。尿や血液、精液までもが採取されたにもかかわらず、その結果は乗組員には知らされず「被ばく」の事実は機密の壁の向こうに閉じ込められてきました。「ロンゲラップ島などビキニ環礁の多く人々と同様に治療ではなく実験に重きが置かれ、被曝した人々は核の影響を知る上での「材料」とされたのではないか」という疑いを多くの科学者が訴えましたが、その声も強大な権力の前にかき消されてきました。

しかし、どんなに強大な権力でも真実を隠し続けることはできません。心ある人たちの声を完全に塞ぐことはできません。 

現に、この第五福竜丸の事件は、原爆による唯一の被爆国日本で原水爆禁止運動が国民運動となる大きな契機ともなりました。

今回、公開された米文書は、これらのことに危機感を深めた当時のアイゼンハワー米政権が日本の西側陣営からの離反を憂慮、日本人の反核・嫌米感情を封じ込めようと、原子力技術協力を加速させたことを明らかにする貴重な歴史資料です。

 そこで当時のアイゼンハワー政権は、核に「無知」な日本人への科学技術 協力が「最善の治療法」と考えていたことが明らかになりました。(報道ベース) 

 当時のことを知る政治家の口から「原爆でやられたのだから原発で見返してやる」という言葉が出ていたことを私は現役の代議士の講演で先日、知りました。戦勝国である米国に「隷属する道」を選んでいた当時の日本の保守政権は、「原子力の平和利用」という名目でこの技術協力を受け入れたのでした。「見返す」などと言っていても現実には、抗うことのできない強い力に屈したのではなかったかと思います。

いずれにしても公開された米公文書によって核・原発を受け入れる当時の日本政府の判断の背景がどこにあったかを国民が知ることができることは、大きな前進です。被爆国日本は、その真実を明らかにし、自ら経験した核の悲惨さを訴え、世界に高らかに核廃絶を求める立場にあったはずです。しかし、日本の核廃絶運動は、日本が核兵器に依存して自国の安全保障を確保しているというところからくる矛盾を抱えてきました。ヒロシマ、ナガサキの体験を海外で訴えるたびに日本そのものが核兵器に依存しているではないかと言われて説得力を失ってしまう。

1950年以降の日本の核廃絶の歴史を見ても当時の米政権の思惑は、相当程度、成功したと思わざるを得ません。核の傘に組み込まれることで、ヒバクシャは隠され核廃絶の言葉は退けられていきました。

 

 「核兵器は「力の支配」の頂点に立っています。その力の支配に対抗するのは「法の支配」。つまり「Rule of law」で核兵器を廃絶に追いやっていく、なくしていくというプロセスが中心にならざるをえないと考えています。

 しかし今、国際法で、核兵器の廃絶を明確な目的に規定した国際法はありません。唯一、NPT、核不拡散条約の第六条が、ニュークリア・ディスアマメントという言葉を明記し、本来の意味は「ゼロにする。撤廃する」ですので、決して軍縮すればよい、削減すればよいのではないとうたっています。

 

ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は、1996年にこの第六条の解釈について、明確な、より曖昧さを排除した解釈を示しました。単に誠実に交渉するだけではなくて、「締結する」、「終了させる」、「軍縮交渉を締結させる義務がある」ということを、NPT全参加国に対して言ったわけです。NPT第六条に依拠した核兵器廃絶のプロセスが一つあります。これは5年ごとの再検討会議でたえず点検しながら、少しずつ前進していく方法です。

 特に今の日本で強調したいと思うのは、いわゆる2000年合意です。5年ごとに再検討会議をした結果、この第六条義務、「保有している核兵器をすべてなくす」ことを、核保有国も含めた加盟国すべてが明確に約束をすると再認識されました。」

(「平和」第14章 松林宏道さんとの対談より)

 松林さんとこの対談を行ったのは北朝鮮が核実験を行った2005年の秋の事でした。

私の元にはどうして保守派が核廃絶などと左翼のいうような言葉を使うのかという声も寄せられました。そもそも核開発=保守・核廃絶=革新などという次元でとらえられるような話ではありません。核の惨禍、放射能の影響は、人も国境も選びません。

 「核」に対して本当に「無知」だったのは誰でしょう?

「治療される」べきは、科学技術協力の名のもとに「人道に対する罪」である核兵器開発に抗う力を日本人から奪っていった人たちではないかと私は考えています。

 あれから6年が経ちました。2010年には、NPT運用検討会議:最終文書(行動計画)が発表されました。その中で核軍縮の2000年合意「明確な約束」の再確認がおこなわれま

した。すべての国は「核兵器のない世界」の実現という目標と整合性のとれた政策を追求することが決定しました。

 

 福島第一原発事故の収束に未だに見通しが立たない現在、避難と言う形で住まう家を奪われ、生活を奪われ他人達の生活再建も厳しい状態が続いています。食品からも放射性物質が検出され、産業にも大きな打撃が出ています。国の内外に広がる放射能の恐怖。ヒロシマ、ナガサキの二度と同じ過ちを繰り返さないと言う誓いを新たにする時。アクション1に始まる具体的な核軍縮のプランを速やかに例外なく行っていくことが地球と人類の生存の保障そのものだという強い確信を持ちます。

あらゆる種類の核兵器削減、核兵器の役割の更なる低減、核兵器システムの運用状態の低減は、けしてゴールではありません。ゴールはあくまで核廃絶であり、これらは廃絶に向けたステップだということを確認したいと思います。

文書が公開されることで当時の米政権は歴史の検証を受けることになります。それは、現在の米国にとっても不都合な真実が明らかになることかもしれません。しかし、それをあえて法律で義務化しているところに民主主義の底力を感じます。政治を司るものは、常に後世から歴史の検証に耐えられることを意識します。過ちは、検証されることによって改める知恵となります。 .

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