2010年03月14日(日)
国づくりは地域づくりから
河村名古屋市長、中田元横浜市長とサンデー・プロジェクトで地域主権改革について議論しました。
市民税減税、地域委員会と立て続けに政策を打ち出している河村市長。市議会との対立も報じられていました。「議員はボランティアでなければならない。」という河村さんの持論とおり、市議会議員の報酬を半分にするという条例?市議会の猛反発の声も番組内で紹介されていました。地方自治は、首長と議会が車の両輪のように機能することが大事だと言われます。地方議会からも変革の動きが出ています。市長同様に選挙で選ばれたのですから市議会の声を無視しては行政は成り立ちません。
地方自治の構造そのものを根底から変えようとする河村市長。固定化したシステムに穴を開けるときには英断も必要です。議会の権能と責任。中田元市長の分析も極めて鋭いものがありました。説得と実行。名古屋発の大きな変革の芽を感じました。
私は地域主権改革の理念について述べました。
地方分権をテレビで議論しても視聴率が上がらないと田原さんがお話しされました。これまでの分権理論は、中央政府という行政組織から自治体と言う行政組織に財源や権限をどう移すかという極めて限られた議論だと受け取られていたのではないかと思います。しかも分権と言う割には義務付け枠づけも残ったままで、寧ろ徒労感さえうったえる人さえいるくらいでした。
三位一体改革が残した大きな「傷跡」。地方の中央政府に対する不信は消えていません。
私たちの地域主権改革は、主権者たる国民が、自らの責任において地域をつくる改革にほかなりません。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(日本国憲法前文1項)
o「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(日本国憲法第1条)
このように日本国憲法は国民主権を高らかにうたいあげています。
すなわち「主権」は、国家における最高決定力という意味で使われています。
他方、地域に対する愛なくして国家に対する思いを醸成できるでしょうか?国を愛することを学ぶことができるでしょうか。地域をつくる不断の取り組みに無縁な者が、国家をつくることができるでしょうか?自らの地域の歴史や伝統を学ぶことなく、国家の歴史や伝統を学ぶことができるでしょうか?地域、地域で受け継がれ続けてきた歴史や文化が蔑にされれば、国の基礎さえ危うくなります。
私たちが目指す地域主権改革は、自らの責任において自らの住む地域を育み、伝統や文化、歴史を学び次世代に引き継ぐ試みを基礎とする「国づくり」の改革でもあります。
誰かが一人勝ちして先に進めば、後の人はそのおこぼれでどうにかなるという「トリクル・ダウン型」の発想では地域は衰退してしまいます。中央集権のピラミッド体制が、資源を独占し地域の持つ力を奪ってきたのではないか。義務付け・枠づけなどで地域をがんじがらめにする一方で、直轄事業負担金など有無を言わせぬ「中抜き」で、さらに地方を疲弊させたのではないか。
私たちは、地域の持つ力ー歴史や文化、伝統の持つ力に着目しています。豊かな自然と絆の中で協働から生まれるものを大切にしたいと考えています。あちらこちらの泉から美しい水が湧きだすように、自らの地域を自らの責任において創る自由を得た人々は、様々な可能性の芽を生み出すことができます。「ファウンテン(湧きあがる泉)」のモデルを提示しています。
佐賀でも佐賀城下雛祭りなど独自の文化の継承に多くの人たちが参加して次世代につなぐ歴史と伝統を育んでいます。番組の中では遠野の試みを紹介しました。中央からくる予算を上手に配分することだけが政治ではありません。発展型のシステムは、必ず「学びと教育」をその中に内在させているシステムです。「緑の分権改革」も最初のモデル地区が出そろってきました。地域が持つ創富力や自給力をさらに拡大させて、地域を蘇らせたいと考えています。