2009年12月13日(日)
「水の神様」に学ぶ

 
水の神様とあがめられている成富兵庫茂安。
彼は、龍造寺家の家臣、成富甲斐守信種の次男として永禄3年に現在の佐賀市鍋島町増田に生まれています。

 幼名は千代法師丸、新九郎。

 幼いころの茂安は、性格が粗暴で手のつけられない暴れ者でした。
友人との博打に負けて家の籾倉まで博打のかたにしてしまう不祥事を起こしています。
 
 茂安の勝手な振舞いに激怒した親戚が集まり話し合います。そして「こんな者は生きていでもしょうがない。処分すべきだ。」と父親である信種に提案します。

 しかし、父親である信種は、集まった親戚を必死に説得します。
「わが息子のやったことは誠に申し訳ない。しかし、今一度、機会をください。それでも行状が改まらない時は、わが手にかけて討ち果たそうと思います」。

 素行が改まらぬ時は討つ覚悟での説得が茂安を改心させていきます。その後、心を改め、勉学に励むようになった茂安は、数々の武勲をあげるとともに、加藤清正を助け名古屋城、熊本城の築城に携わり、沈み城としても有名な佐賀城の築城も行っています。

 広大で豊かな佐賀平野ですが、保水力の浅い山と干満の差の激しい有明海い挟まれて旱魃と洪水に慢性的に悩まされる状況でした。水争いは絶えず、どこか一箇所を触ると、他が許さないなど、治水対策が大事なのに水利に手をかけ「水の流れ」を変えることは、タブーとされてきました。

 これを根本から変えたのも茂安です。
まさに水の流れのように。自然に逆らわない。
一箇所に目を奪われるのではなく全体を考える。

 茂安は、単独工事を行うのではなく中小河川やクリーク、堤などを巧妙に結び付け、平野全体で治水、利水、排水を行うというシステム築いてきます。
 

 • 石井樋 - 嘉瀬川
• 千栗堤防、蛤水道 - 筑後川
• 横落水路 - 城原川
• 中原水道 - 綾部川
• 羽佐間水道 - 多久川
• 三方潟の大日堰 - 六角川
• 佐賀江の改修

 短期間にこれほどの利水・治水システムを築き上げるには、多くの人と資源を一気に集中させなければなりません。多くの人に慕われた茂安。強いリーダーシップと大きな構想力。

 今もなお、茂安が築いたシステムにより私たちは多くの恩恵を受けています。

  自然を壊し、人々の糧を奪う結果となった大規模公共事業も少なくありません。
新政権で大幅な見直しを進めていますが、茂安の治水事業と現代の大規模公共事業と比較すると、その知恵の深さがどんなに違うかがわかります。

 自然に対する畏敬の念と人々の暮らしを守る決意。

 水の神様に学びたいと思います。