MRIC記事の転載です。
筆者の情熱と暖かな人間に対する視線が伝わります。
一隅を照らす。そのために今日も頑張ります。
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▽ ダミアン神父と日本人医師 ▽
湯地 晃一郎(医師、東京大学医科学研究所内科助教)
2009年10月11日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行
http://medg.jp
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本日、10月11日、ヨセフ・デ・ブーステルこと、ダミアン神父が、バチカン市
国において聖人に列せられる。ダミアン神父はハワイのモロカイ島で強制隔離収
容されていたハンセン病患者救済のために尽力し、自らもハンセン病に罹り死亡
した。カトリックの愛を体現した人物として有名であり、ハワイおよび母国ベル
ギーの英雄である。ダミアン神父はハワイおよびハンセン病・HIV感染者の守護
聖人とされている。(ちなみに我が国の守護聖人はフランシスコ・ザビエル)。マ
ザーテレサが、ダミアン神父の聖人推挙のために尽力した。
ダミアン神父
http://ja.wikipedia.org/ダミアン神父
ダミアン神父のハンセン病治療に、日本人漢方医の後藤昌直があたっていたこ
とはあまり知られていない。ダミアン神父は深く後藤を信頼しており、数少ない
友人の1名であった。後藤は明治時代中期の1885年(明治18年)、1893年(明治
26年)の2回、国王から招聘されハワイに渡り、ハンセン病患者の治療にあたった。
後藤昌直
http://ja.wikipedia.org/wiki/後藤昌直
ダミアン神父が列聖される本日、不治の病であったハンセン病に立ち向かった、
ダミアン神父と日本人医師との関係を紹介したい。
後藤昌直は1857年(安政4年)美濃国で出生した。父は漢方医の後藤昌文。慶
応義塾医学校に学び、神田にハンセン病患者専門の「起廃病院」を開院、隔離政
策が主であったハンセン病を、外来・通院治療で治癒に導いた。治療は大風子油・
七葉樹皮・甘草の丸薬の服用、大風子実の絞り糟などの薬湯の使用、温浴療法、
食事・運動療法であった。大風子油は、1943年(昭和18年)のプロミン開発前に広
く全世界で用いられていたハンセン病の特効薬である。後藤は「難病自療」など
の著作・講演でわかりやすく患者向けに啓蒙活動を行い、治りえる病気であるこ
とを説いていた。また、全国の門下生に指導を行い全国各地(栃木・群馬・神奈川
・静岡・愛知・京都・大分・長崎・沖縄)に治療院を開設し、貧しい患者には無
料で治療を行い、公費治療も一時的に実現した。後藤父子は当時の癩治療の権
威であり、清国・ハワイ王国からも治療を求め患者が来日していた。後藤とダミ
アン神父の接点は、ハワイ人ハンセン病患者が後藤の治療を日本で受け治癒し、
帰国したことから始まる。
1881年(明治14年)、来日中のハワイ王カラカウアが起廃病院を訪問。ハワイ
人富豪のハンセン病患者が来日し後藤療法で治癒し帰国したことを受け、1885年
(明治18年)、患者の要望および王国の招聘により後藤昌直はハワイに渡り、ハ
ンセン病患者の治療にあたった。ハワイのハンセン病患者は当時、モロカイ島の
北に位置する、カラウパパという断崖絶壁の地に隔離されていた。ダミアン神父
はここで布教を行い、患者のために献身的に尽くした。患者のケア・死者の埋葬
に加え、教会・孤児院・病院を設立したが、その過程で自らもハンセン病に罹患
した。後藤はダミアン神父の治療にあたり、彼のハンセン病は一時軽快した。ダ
ミアン神父は「私は欧米の医師を全く信用していない。後藤医師に治療して貰いた
いのだ」との言葉を残している。またダミアン神父は世界のカトリック教会に後
藤療法を紹介した。、海外でも後藤療法が行われ、また神山復生病院(静岡県御殿
場市)は、フランス人テストウィッド宣教師へダミアン神父が後藤療法を紹介し
たことが開設の契機となった。しかしながらハワイ衛生局との確執などから、ダ
ミアン神父の治療は1887年(明治20年)中断され、同年後藤はハワイを去り、
1889年(明治22年)ダミアン神父はモロカイ島で亡くなった。享年49歳。
死後ダミアン神父はモロカイ島に埋葬されたが、「ベルギーの英雄」として遺体
を求める世論がベルギーで高まり、1936年(昭和11年)にアメリカ海軍からベ
ルギー海軍の手を経て故郷ベルギーへ戻された。現在は故郷のルーベンスの教会
近くに眠る。
1887年(明治20年)に後藤昌直は鳩山首相も学んだスタンフォード大学の医
学部の前身 Cooper Medical College に留学し卒業論文を提出し帰国。再度父とと
もに起廃病院にてハンセン病患者治療にあたった。北里柴三郎とのハンセン病共
同研究にも取り組んでいたという。
1893年(明治26年)、ハワイのハンセン病患者の強い要望(総患者の70%強に
及んだという)により嘆願書が提出され、後藤昌直は再度ハワイに渡り、ハンセ
ン病患者の治療を行った。ハワイ国王からも叙勲を受けた。しかし1895年(明治
28年)に治療は再度中止となり、帰国の途につく。その原因としては、衛生局派遣
のMolitz医師との確執、入植地の労働力確保(隔離患者が入植地での労働を行っ
ており、派遣医は入植地経営者も兼ねていた)、後藤療法に必要な漢方薬が高額で
あったこと、などとされている。また父後藤昌文の病状悪化もその一因であった。
後藤昌直は日本帰国後、日本でハンセン病患者の為に尽くし、1908年(明治41
年)7月9日、東京で没した。享年59歳。現在は東京品川海晏寺に眠る。
ハワイ王国では1840年頃からハンセン病が広まり、1866年から患者を隔離収
容していた。輸入感染症による人口急減が国力減退の一因といわれている。カラ
カウア国王は日本国との同盟を模索し、来日したが同盟は叶わず、その後王国は
滅亡しアメリカ合衆国に併呑された。その後ハワイ諸島は植民地となり、軍港とし
て栄え、日本の真珠湾攻撃という不幸な時代へと歴史は動いていった。また我が
国のハンセン病対策は、患者強制隔離・断種という暗黒時代が近年まで続くことと
なった。
ダミアン神父と日本人医師後藤昌直は、当時不治の病であったハンセン病に立
ち向かい、差別なく患者のケアを行った。ダミアン神父が列聖される本日、この
2名の関係を、カトリック信者以外の方々にも広く知っていただくことが、日本と
ハワイ、そして日本とベルギーの友好に繋がることを願ってやまない。