2009年08月09日(日)
如己堂と長崎  永井博士の残された言葉

 

如己堂と長崎

長崎は不思議な町である。長崎の町を歩くと、折り重なる歴史の重みを感じ、しばし異空間に舞い降りたような錯覚に陥る。和・華・蘭の文化が至る所に散りばめられ、色彩豊かな町のそこら中に、カメラを手にした観光客が歩き回っている。長崎は歩き回るのに丁度良い町なのかも知れない。
長崎は悲しい歴史を秘めている。多くのキリシタンが,秀吉,家康の禁教政策によってその命を散らしたところだ。天正15年(1587)、 豊臣秀吉による禁教令が発せられ、京都や大阪でとらえられた外国人宣教師6人と子供を含む日本人20名が長崎に送られた。26人は慶長元年(1597)に、長崎西坂の丘で処刑された。処刑されたこの地を「26聖人の殉教地」という。1614年の江戸幕府によるキリスト教禁止令に伴い、キリスト教徒はひっそりと隠れた信仰を行うことになる。
そして,1945年、8月9日の原子爆弾投下。長崎は佐賀と隣接しているということもあり、被爆した多くの人々が、佐賀の地へも来られたという。そのような話を身近に聞いて育った私でさえも、平和公園にいると,震えが止まらない。自分の悲しみさえ塵のように小さく思えてくるのである。平和公園のほぼ東には、鮮やかな煉瓦色に染まる浦上天主堂が建っている。そこから北西に延びる緩やかな坂道を降りていくと、永井隆博士の如己堂が見えてくる。
昭和15年、永井隆博士は長崎医科大学助教授として、放射線物理的療法の研究に従事していた。しかし、研究によって浴びた放射線によって、白血病に冒されてしまう。その後、昭和20年、あの長崎への原爆投下によって被爆するのだが、従来の白血病に加え、原爆症という二重の苦しみが博士を襲うことになる。
自分の体を顧みず原爆症の人々の救済を続けた永井博士。ぼろぼろになった体をむち打って救済活動を続けるも、とうとう床に伏してしまう。この如己堂は、昭和23年、浦上の人々や教会の援助により建てられた。こうして、永井博士の執筆活動がこの二畳余りの部屋で始まるのである。永井博士自身キリスト教徒であり、如己堂とは、聖書の一節「己の如く人を愛せよ」という言葉により如己堂と名付けられたそうである。昭和26年、博士は眠るように亡くなった。その間に書かれた多くの著作は、今もなお、多くの人々の心を打ってやまない。
永井博士の「この子を残して」の著書の中に次のような言葉が残されている。
「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も吹き飛ばされ、未来も壊されてしまった。見ている目の前でわが愛する学生もろとも一団の炎となった。
わが亡きあとの子供を頼んでおいた妻は、バケツに軽い骨となってわがやの焼け跡から拾わねばならなかった。台所で死んでいた。私自身は慢性の原子病の上にさらに原子爆弾による急性原子病が加わり、右半身の負傷とともに、予定より早く廃人となりはててしまった。」
(永井 隆著「この子を残して」より)
博士は、学者として冷静に自分の体を実験台にした。同時に戦争の無力さや悲惨さも
著作の中で訴えている。
「戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう! そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?」

 「しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。」

 「もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと〝戦争絶対反対〟を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても〝戦争絶対反対〟の叫びを守っておくれ!」

「いとし子よ。敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ。」(長崎の鐘より)
 1945年8月、広島・長崎への原爆投下後、日本は降伏し、戦争は終結した。戦争が終わってわずか数年であるにもかかわらず、永井博士は、日本の再武装を危惧している。人間とは、かくも愚かな生き物か。永久に戦争を放棄しようと誓ったではないか。また戦争を起こそうとするのか。永井博士の危惧は、皮肉にも的中してしまった。戦後61年を経たこの日本で、日本の核保有論がまさに議論されようとしているのだ。
唯一の被爆国である日本。この国が進むべき道は、決まっている。平和の道をひたすら歩み続けることである。永井博士は、敵を愛せよ、と説いている。自分さえも自国さえも愛せない現代の私たちに、敵を愛するという恐らく一番困難な課題を克服することができるのだろうか。
博士の言葉は、原爆という核兵器の恐ろしさを身をもって知り、命の炎燃え尽きるまで、人間としての尊厳を失わなかった博士自身の魂の言葉である。怒りは怒りの連鎖を作る。戦争をなくすのは、博士が言うように唯一愛、それも与え続ける「愛」なのかも知れない。