2009年05月03日(日)
憲法論議 生存権

 
生存権

 憲法25条は最低限の生活だけを保障だけを命じているという立場をとることは、その趣旨を極度に狭く解釈するもので容認できないと考えられます。社会権は福祉国家または社会国家の理念に基づいて人間らしい生活の保障を求める諸権利の総称です。生活権、勤労権、勤労者の団結権、教育権などを含むと考えられます。
 自由権の理念が国家権力からの個人の自由を規定しているのに対して、社会権の理念は、国家の権力による国民の経済的・文化的生活の向上、いわゆる人間の解放を規定しています。
 

私が起草者として名を連ねた公共サービス基本法が衆議院を通過しましたが、この基本的な枠組みの議論をしました。私は、「公共サ-ビス」を基本法という形で再定義して、国民との契約という形で新しいパラダイムを提示したいと考えています。

  「強大な官僚社会主義」とそこにパラサイトすることで権力の基盤を握る政治。「依存と分配」の癒着構造そのものが公正と活力、安心を奪っています。市場や社会が官僚社会主義の差配によって歪められ、税金の無駄使いが恒常化してしまいました。大きな政府―旧来型福祉国家の失敗は、市場原理主義者の標的となり「官から民へ」というスローガンとともに、公共そのものの破壊へと突き進んでしまったと私は考えています。

 私物化された官を民営化しても、さらに不公正を拡大するだけで、国民の権利や人間の尊厳を保障することにはつながりません。私物化された官を民営化した果実は国民に還元されず、ツケだけが回されてしまいました。小さな政府にしても、ガバナンスそのものが変らなければ、政府のカバー領域が減らされた分、安心が減ってしまうことになります。
  
 旧来の福祉国家は、財源を政府に集め、サービスも政府が統制的に行う非効率と不公正を抱えていました。それに対して市場原理主義国家は、これまでの政府の領域を狭め、それ以外について料金を国民から徴収し営利企業がサービスを担う形をとります。市場は失敗を内包するものですが、その失敗を補う公共は市場に追いやられるように縮減されてしまいます。民間保険中心の医療制度がその典型で、保険会社が医者と患者を選ぶことになり、命のさたも金次第という殺伐とした怖れを生み出してしまいます。

改革の名の下に強きを助け、弱きを挫く政策が行われ、セーフティネットが破壊されれば社会は倦んでしまいます。人は篩いにかけられ、選別され格差が拡大します。

 日本の意識を調べてみると、今なお「市場重視か弱者保護か」、あたかも分裂した民意があるように思えます。国政における議論もはっきりとした筋道が見えず迷走しているように見えるのも、このようなジレンマを背景にしているとも思えます。

 国民は民営化をはじめとする「改革」に疲れています。広がる格差を何とかしたいと思いつつも、一方で官僚政治に対する警戒感・不信感も強く古い分配型政治に戻るなどもってのほかだと感じているように思います。今の日本はサッチャー改革や父ブッシュ改革の後のアメリカやイギリスに似ています。市場原理も福祉保護もどちらもいやだというジレンマの中にあるため、簡単に福祉重視や市場重視といえない状況にあります。

そこで大切なのは「公共」を再定義し、公共サービスをきちんと位置づけていくことです。
私たちが言う公共サービスとは、市場化テスト法などの導入を前提とした古い政治の提示した「公共サービス改革法」の定義とは全く違うものです。公共サービス基本法は、公共サービスの定義や意義を論じるまえに、民間に切り出しやすいところをメニュー的に列挙しているだけの法律で、短期的で安易なコスト計算で行われた市場化テストは、有害なだけで意味のないものだと私は考えています。

 日本では官僚社会主義と市場原理主義の最悪の政策コンプレックスがとられたために所得格差・税収格差・公共サービス格差の悪循環に陥っています。

地域の格差・疲弊を分析してみると①人々が地域で元気をなくしている 参加する意欲を失っている②近親者のケア・加齢・心身の弱まりによって参加困難である ③技能未獲得、就労機会の欠如によって参加困難である④知識の未熟によって参加困難である等、最低条件としての公共サービスの水準も保障されないために、様々な問題が起きています。

若い世代でジニ係数が上がり、あろうことか子どもの貧困に結びついています。これはとても深刻な事態です。

日本はもともと就労を福祉におきかえてきた社会ですが、就労を保障してきたシステムそのものが変遷して就労が福祉を供給できなくなっているだけでなく、雇用環境そのものが劣化しています。


 市場原理主義でもない旧来の福祉型統制でもない第三の道が模索されるべきです。
北欧諸国は財政赤字も低く高い経済成長をほこっています。しかも格差が少ないのは、        公共サービスへの支出が高く、機会の平等に政策の焦点を当てた政策が機能しているからだと思われます。「参加保障型の公共サービス」は、協議により「社会的セーフティネット」お「社会的インフラストラクチュア」を整備していく新しいガバナンスを獲得しなければなりません。それは、まさに人間らしく生きるという憲法25条の理念を実践するための必要条件そのものなのです。