2009年05月03日(日)
憲法論議 地方自治
地方自治
地方自治における憲法の規定はまず「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。(憲法92条)」と規定されています。
「地方公共団体の組織および運営に関する事項は団体各自の意志に任せず、これを国家で統一するが、政令その他の行政府の命令によらず、国会の議決を経た法律で定められなければならない。」と解釈さていますが、条例による法律の上書き権も含めて近年は、分権の立場から様々な議論がなされ、私たち民主党は先ごろ、提出した地方分権計画において、明確に分権社会の形を示したところです。
一方、ここでいう地方自治の本旨とは何でしょうか?憲法92条の重点はここにあると考えられますが、憲法は自明のものとして何の説明も加えていません。地方自治という観念は、民主主義と地方分権という観念の結合によって形成されるものと解せられるとされています。民主主義は、構成員の「自己―統治」すなわち自治または自律を本質としますが、地方自治もまさにこの意味の自治を本質とするものです。私たちはこのことを住民自治、人民自治と呼んでいます。
しかし、現状で住民自治の原則は貫徹されているでしょうか?自治体が起債をしようとしても中央政府の承認が必要などというのは極めて不合理なことですし、民主政治の原点である増税・減税を行う権利さえも実質的に認められていないために、中央からくる補助金を当てにするだけの「依存と分配」の政治が続いています。
先日、衆議院総務委員会で直轄事業負担金をめぐる参考人質疑をしましたが、有無をいわせぬ負担金の強制は、その不透明さに加え、地方財政に予見可能性を与えず、地域社会が優先と考える公共サービスの提供を阻害する大きな障害となっています。
行政責任明確化の原則は、地方自治を運営していく前提条件です。この原則にそって責任の所在を明確にして、それぞれの事務は能率的に遂行できるところに割り当てることができます。能率性の原則とあいまって、地方自治を実現していくための原則ですが、行政機関のどの単位に責任があるか、わかりません。国と地方の利益に応じて負担をするという利益を算定する客観的根拠もないので概数で決めてしまっている現状です。負担の対象や負担の範囲も恣意的に決められてしまっていますし、中身についても事前に説明されずに強制されていません。いわゆる「地方からの反乱」が起きるのも当然だと考えます。
もう一つの地方自治の原則が補完性の原則です。個人でできないことを家族が、家族でできないことをコミュニティがコミュニティができないことを地方自治体が補完をしていく。
これは、地方自治を具体化していくときの基本原則です。顔の見える公共サービスの保障、サービス提供を考えれば、その決定主体と実施主体はできるだけ同一で、住民により近いところの供給主体であるべきと考えます。
強制された乗客の悲劇 (forced rider)が官僚主導の中央集権体制によっておきています。 地域社会に必要な公共サービスの提供を阻害していると先ほど述べましたが、阻害にとどまらず必要な政策資源の浪費・枯渇をも意味しています。中央政府が奉加帳のように地方に負担を求めるのでなく、負担対象、負担内容・負担理由をきちんと説明すべきです。三位一体改革による地方切捨ては、財政力の弱い地方自治体により大きな、過重な負担を強いています。負担対象・負担内容について説明・参加なき決定は無効であることが憲法92条からも導き出されなければならないと考えますが、これまでの司法は長期政権に対してあまりにも寛容で、国民の大切な権利の保障・地方自治の本旨を蔑ろにしてきたとの懸念が拭えません。