2008年01月01日(火)
光抱く(ひかりいだく)子どもたちに
光抱く子どもたち。
みなさんに伝えたいことがあります。
ぼくの3人の子どもたちだけでなく
多くの子どもたちに。
子ども
批判ばかりされた 子どもは
非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは
力に頼ることを おぼえる
笑いものにされた 子どもは
ものを言わずにいることを おぼえる
皮肉にさらされた 子どもは
鈍い良心の もちぬしとなる
しかし、激励をうけた 子どもは
自信を おぼえる
寛容にであった 子どもは
忍耐を おぼえる
賞賛を受けた 子どもは
評価することを おぼえる
フェアプレーを経験した 子どもは
公正を おぼえる
友情を知る 子どもは
親切を おぼえる
安心を経験した 子どもは
信頼を おぼえる
可愛がられ 抱きしめられた 子どもは
世界中の愛情を 感じとることを おぼえる
(川上邦夫訳「あなた自身の社会ースウェーデンの中学校教科書」
1997年新評論より)
ぼくは、1959年に佐賀で生まれ、今、衆議院議員を
しています。
でもぼくが伝えたいのは国会議員としての言葉ではありません。
何かを皆さんに教えたりといった気持ちもありません。
ぼく自身わからないことだらけで、今も一生懸命勉強している最
中なので「誰かに教えること」などできないと思っています。
ぼくがこれから伝えたいのは、光の話です。
病気ばっかりしているぼく。
いさかいの絶えなかったぼくのまわり。
仲間に入れなかったぼく。
しっぱいばかりだったぼく。
夜になると「なぜ生まれてきたのだろう。」 「どうせ死ぬんだ
ったら同じじゃないか?」と泣き叫んでいたぼく。
くる日もくる日も続く闇(やみ)。
ぼくは自分を苛める(さいなめる)ものには不自由しません
でした。
ある時は骨折による体の痛みです。
(最近、わかったことですがぼくは先天性骨不全症ですぐに骨
折してしまう体だったのです。)
あるときは、人をひとでなくしてしまうような
酷い言葉の連射(れんしゃ)。
ぼくは、この体のそとに出られたらどんなにいいだろうと
毎日毎日、思いました
闇(やみ)の中でもがいていたときに
ぼくは薄明かりに気づきました。
それは、ぼんやりとした光。
今ふりかえるとそれは
光ではなく音だったのかもしれません。
それは暖かな
魂(たましい)の奥底に響くもの
幾重にも重なる
波の連なり。
それを力と呼ぶ人もいます。
物理の世界では、波動と呼んでいる人もいます。
光が凍りついた
ぼくを解かすのが
実感されたとき
新しい世界に
生れ落ちたような
温もりが体中を満たし始めます。
光がおとずれたのです。
初めての気づき
お日様の光がみんなを照らすのと同じように。
ぼくにも光があたること。
ひょっとするとその光のぬくもりは
ぼくの中にもたくわえられているかもしれないこと。
死ぬのは今でも怖いけど
土に帰ることは
そんなにわるくはないかもしれない。
土のなかにもあたたかさがあるかもしれない。
光抱く子どもたちに
ぼくが伝えたいのは
ぼくがもらった光です。
ぼくがもらった光の話です。
世界が光に満たされていることを知った日の話です。