2004年1月4日
原口一博国会通信(115)                    DIGITAL SYOKASONJYUKU

                      平和の創造にむけて
                  パウエル国務長官の論文によせて

 1月12日から日米議員交流プログラムで訪米いたします。圧倒的な軍事力を有し、「世界の警察官」的な存在となった米国ですが、冷戦後の平和構築に向けた試みは、苦難の連続です。同盟国=日本も、国内外で「米国に対応を任せて独自の判断がない」「米国の従属国か、もしくは51番目の州ではないか」との批判が強まっています。冷戦後の日米同盟はどうあるべきか?新しい平和の創造にむけての積極的役割をどう果たすか?米国の友人たちと議論を重ねていきたいと思います。

 テロ後の米国が、知性の美徳としてきた「寛容」を失ったかのような振る舞いをすることに私は、率直に危惧を表明してきました。イラク戦争に突入する時も、外交をはじめとするソフト・パワーが後退し、軍事の論理に寧ろ外交が引っ張られてはならないと警鐘を鳴らしました。今でも理解できないのは、昨年9月に発表された米国家安全保障戦略(NSS)において先制的自衛が戦略の中心に位置づけられたことです。

 「アメリカのパートナーシップ戦略」(コリン・L・パウエルA Strategy of Partnerships/Colin L. Powell F.A.)において国務長官は、「テロを打倒するには、個々のテロリストを屈服させる軍事作戦やテロ支援国家に対する抑止策だけでなく、法執行や情報の共有に関する多国間協調を重視しなければならない。」として先制攻撃論の真意を述べています。

 先制攻撃論が明示された理由として「ひとつには、アメリカ政府が常識的な認識を持っていることを米市民に知らせ、安心させるためだった。」「第二の理由は、敵対勢力に対して、彼らが大きな問題に直面していることを認識させるためだった。」ことをあげ、「先制攻撃の対象とされるのは、テロ集団のような抑止できない非国家アクターがつくり出す脅威だけである。」としています。

 しかし、昨年の3月、世界は『米国の先制攻撃の対象はイラクを始めとする「悪の枢軸国」であり戦争は避けられない。』と考えていましたし、何よりもこのNSS文書には、他の国が同じ論理で先制攻撃論を採用することに対する言及がどこにもありませんでした。ウェスト・ファリア条約上の国家主権の概念が破綻し、誰でもが先制攻撃を採用することが可能になれば、平和の創造はいっそう困難になっていまします。ジョセフ・ナイ博士が論じられているように、米国の軍事面での一極的なパワーは圧倒的ですが、経済は多極化しているし、世界の文明や価値観はさらに複雑化し多様化しています。

 民主主義や「自由と人間の尊厳」は一つのパワーによって世界に普遍化されるべきなのでしょうか。また誰が「人間の尊厳」を判断するのでしょうか?一方で、抑圧された人々、侵害される人権、損なわれる命に対して、違う国家のことだとして座視していていいのでしょうか?

 先日の討論で私は、リヤドの公開処刑を例にあげ、このことを問いました。サウジアラビアの流儀や慣行を単に民主化されていない国のものとして非難する立場に私は立っていません。砂漠の民独特の戒律には西側の基準では、思いもつかない叡智が盛り込まれています。しかし、罪人を公衆の前で処刑するのは、「人間の尊厳」を冒す行為ではないかという問いに明確な答えを見出せていません。

冷戦後、文明の間の「衝突」も激しさを増してきた様相があります。テロが狂信的な集団によって引き起こされていることよりも、「人間の尊厳を冒された」復讐や「レジスタンス」と重ねあわせるかのように起こされることに大きな危惧を感じます。

 『「政治手段としてのテロ」という認識を淘汰するとともに、テロリストの動機を強め、テロ分子を調達しやすい環境を育むような社会要因をなくすための包括的な取り組みも必要になる。』とパウエル長官も述べています。

民族や宗教、国家は個々別々でも、私たちは「集合意識」を共有しているのではないかと私は考えています。怒りや憎悪を増幅させる選択を排除すべきです。「人間は、叩いて解るのならば叩かなくても解る。」武力行使の選択が、国際社会で連続しているこの流れを止める叡智を集めなければなりません。

        DIGITAL松下村塾〜原口一博国会通信 メールマガジン登録