2010年02月11日(木)
「死への恐怖と時間の社会学」(自著「平和」より)

 
ずっと追いかけてきたテーマです。自著「平和」の中で「死への恐怖と時間の社会学」と題して考察しています。

=== 自著「平和」より
死の恐怖と時間の社会学

 「この世の生の時間は一瞬にすぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であること、これは疑う余地がない・・・・」(パスカル)
パスカルが述べるように、永遠を基準に個々の一生をとらえるならば、とるにたらないほどの短い時間だと思えるかもしれない。無限大分の1は、数学の世界ではゼロだ。

  真木悠介氏の「時間の比較社会学」(岩波書店)は、時間の意識がどのように形成されたかを極めて精緻に解きほぐしている。原始共同体の時間意識と近代社会の時間意識の違いも明確に示し、近代が陥った「ニヒリズム」からの解放を記している。
真木悠介氏は、駒場時代に教壇に立たれていた恩師の一人だ。松下政経塾の人間観講座にも講師としてきていただいた。
 
「人は死んでしまえばお終い。」「私の死ゆえに私の生は虚しい。」という感覚は、人間、とりわけ近代の自我にとって避けがたい感覚かもしれない。時間は過去から未来へ向かう幾何学的な直線と意識され、時間は全てを消滅させる破壊をもたらすと思われる。

「死は永遠であり、私たちの未来に必ず死があるのだから、そこには永遠の沈黙が待っている。」そこでは、死への恐怖は、存在そのものに潜む恐怖として感覚される。
「どうせ死ぬのなら、生は何の意味を持つのか?」という問いに人は、どのような答えをもっているだろうか?この文脈において、時間はニヒリズムの元凶であり、自然からも共同体からも「疎外」された人間は、一人寂しく死を迎えるだけなのだろうか?

 真木氏の言葉を借りれば、このニヒリズムは、時間の経過によって「虚無化していく不可逆性としての時間了解」と「抽象的に無限化されていく時間関心」の二つの基礎感覚が元となっている。
 人間は、様々な道具を発明することにより、自然の猛威から身を守り、自然を「コントロール」することさえ考えるようになった。自然の一部として自らを意識し、様々な自然のものに「神」を感じていた感覚と、人間に対置する存在として自然を見る見方とでは、大きな隔たりがあるだろう。
 
 地中から掘り出されアスファルトの上に放り投げられた植物は、やがては枯れていく。自然のいたるところに神を感じていた感覚からすると、現在の人間は、「根扱ぎにされた植物」のように思えるのではないだろうか?
 

 原始狩猟社会では、人びとの役割は共同体の中で有機的に決められていた。しかし、エネルギーを農耕という形で固定化・専有化できるようになると、これまでとは違う質の権力が現れてきた。支配するものと支配されるものは、穀物の貯蔵の発展によりさらにはっきりとするようになった。その後、石化エネルギー、原子力という圧倒的なエネルギーを得た後は、権力は量的な変化だけでなく質そのものの変化を遂げた。
 
 共同態(ゲマインシャフト)は、それに抽象化・複雑化・高度化・都市化することを避けられず解体され風化した。その共同態だけで通用していた時間の観念も、異なる社会が連関し、抽象化するうちに忘れ去られるようになった。物々交換に替わって通貨が表れるのと同じように、共同態の固有の時間に替わって、抽象化・一般化された時間が用いられるようになった。集合態(ゲジェルシャフト)において、人々はもう一つの疎外を感じるようになった。その感覚は、母親の温かい胸から無理矢理引き離された幼子の不安に似ているのかもしれない。温かな群れから切り離された若い猿の持つ不安も同じかもしれない。

 しかし、決定的に違うのは若い猿には、やがて形成できる群れがあるのに対し、共同態から放り出された人間には、戻る共同態はないということだ。
 「虚無化していく不可逆性としての時間了解」と「抽象的に無限化されていく時間関心」の二つの基礎感覚は、上述したような二つの疎外をもとに形成されてきた。

 真木悠介氏は、「自然からの人間の自立と疎外」「共同態からの人間の自立と疎外」の二つの疎外を経験しない社会の時間感覚をつきつめていく。そのような社会は、「死ねば終わり」という時間の虚無・ニヒリズムも、近代の自我が陥ったような「死の恐怖」とも縁が薄い。
 一日の繰り返しが同一人物の来訪と同じように認識される社会において、時間は浪費されるのではなく蓄積される。この社会の時間意識は、過去現在未来という近代的な時間意識とは明らかに違う。時間には、顕現化された時間と顕現化されつつある時間の二種類だけがあり、時間は無限へと発散していく直線としても円としても認識されない。時間は連続しない。「繰り返される逆転の反復、対極間の振動」として認識される。(北アメリカのポピ族の文化)

 「聖なる時間と俗なる時間」。「ハレとケ」という時間において、人間と自然は連続性を持って認識されている。
 
 「抽象的な未来への関心が存在しない社会には、事実上未来が存在しない。」未来の出来事は起こっておらず、実現していないのだから、時間を構成しえない。ある出来事が一度起こってしまえば、もはやそのことは未来にではなく、現在と過去に属する。「時間は進むというよりもむしろ退くものであり、人びとは未来のことを思わず、既に起こったことがらを思うのである。」(ムビティ ケニア・カムバ族出身)
 
 世界は終末に向かって進むのではなく、万物がおのおの休止する場所にむかって退いていく。時間は破壊するのではなく、全てを溶解する大きな大洋としてとらえられる。抽象的な時間感覚は存在せず、特定の共同体にだけ通じる出来事や農作業などが「時」を告げる。このような社会において、人間の生は未来から疎外されず、時間からも破壊されない。
 
 個体の生死を超えて存在する連続体と明確な同一性を持つ社会を想像して欲しい。自然とも共同体とも隔てられることのない社会の時間意識は、近代の時間意識とは全く異質のものである。
 そのような社会においては「戦争」さえ現在とは別の意味を持つ。個体の死が終末である社会は、莫大な破壊力をもって殺傷を続けることにより、「結果」を得る。
しかし、共同体とも自然とも分離されず、その中そのものに自己同一性を求める社会は、時間の感覚も、従って死生観も全く違う。そのような社会においては、開発により無理矢理、土地から切り離された人びとは、生きていけない。死は個体の死を意味せず、生は土地や自然と一体のものとみなされるからである。

 真木悠介氏の時間の社会学は「死の恐怖」「死のニヒリズム」からの解放を示唆して興味深い。同時に、自己同一性(アイデンティティ)とは何かを深く考えさせられる。