2009年08月15日(土)
統治の危機が生んだ「亡国の危機」

 
 何も決められない危機。
統治の危機は、現麻生内閣でもまざまざと見せつけられました。
危険な兆候です。

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(自著 「平和」より引用)

両論併記的意思決定システムの無責任
政策統合力の喪失を最も象徴しているのが両論併記的な意思決定システムだ。
「北部仏印進駐の例。政策対立の未決着を両論併記的解決に委ね、それがまた相対立する競争的行動を始動させる。(吉沢南氏)」ということが繰り返されていく。
1922年にソ連ができるが、ソ連はワシントン条約に入っていない。条約に入っていない巨大な軍事国家のソ連が南進してくる。一方では、中国共産党の伸長が見られる。ここにおいて、日本の地政学的な要請と、アメリカやイギリスとの利害が決定的に違ってくる。この構造を押さえておかなければいけない。
 ファッショ、日本は軍国主義だ、強権主義だと言われるが、統治のシステムそのものは非常に脆弱である。脆弱な政治の統治システムが、多くの人たちの言葉を奪っている。ジャーナリズムの死、国民世論の死、そういったものが大きな戦争、まさに存亡の危機を出現させたとも言えるのではないか。
 天皇に統帥権、統治権があるといっても、その責任は問われないことになっていた。また、首相に閣僚の任命権はない。首相が総辞職を選択しなければ大臣の罷免もできない。未決着なままの対立した政策を両論併記という形で御前会議に出している。それがまた、対立する勢力の競争を生み、過激な行動に走らせる。
長期化する中国との戦い、その戦いに対処するために、また別の対処でもって泥沼に入っていく。脆弱な意思決定システムのもたらす負の連鎖だ。政治統治能力の脆弱さ、あるいは構造的欠陥、意思決定システムに至るまでの構造的な欠陥に対して、私たちは深い洞察を加える必要がある。
 私は、日本のシステムが組織化されていなかったとは思えない。むしろある意味での戦略性を持ち、部分的には統合性を持った意思決定システムを国会の議事録からは見ることがでる。しかし、これは非常に反語的な言い方だが、組織化された上でのアナーキーな無政府状態と言ってもいいようなものが議事録からは見てとれる。
 目的の明確化や共有化の議論は先送りされている。何の目的でやっているのかがわからなければ、出口の戦略はありえない。
 暴力によって言論が封鎖され、憲法外の存在が大きな力を持っていく。まさにそのとき私たちはルールそのものを失うのだ。

「張作霖爆死の件 
 この事件の首謀者は河本大作大佐である、田中総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那(ママ)に対して遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。そして田中は牧野内大臣、西園寺元老、鈴木侍従長に対してはこの事件に付いては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云ったそうである。
 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議はうやむやとなつてた終つた。
 そこで田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやに葬りたいと云ふ事であつた。それでは前言と甚だ相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語調で云つた。
 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、もし軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになったと云ふのである。
 田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。
 かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉やこれを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出されたことは、後々迄大きな災いを残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。
 この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見も持つてゐても裁可を与へる事に決心した。」
 「独白録」には、内閣の上奏と裁可の関係が記されている。「いやな言葉やこれを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出されたことは、後々迄大きな災いを残した。」と記されているが、ここからは、「神格化」された天皇陛下にさえ抗しきれない空気がみてとれる。閣議はうやむやに終わり、事件そのものもうやむやにすることが決定されている。その理由の一つが「もし軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めとなった」と語っている点である。
 「ベトー(veto)」という君主が大権をもって拒否する権利が認められていた。昭和天皇陛下は、開戦を避け、平和をつくるために最後の最後まで努力を重ねられた方であった。そのことは、歴史の資料が如実に語っている。しかし、その天皇陛下をしても政府や軍部の決定に「不可」をいうことが難しくなっていった空気は怖ろしい。