2009年08月07日(金)
磔の蝶
人間は何故、死ぬのか

 私たちは、何処から来て、何処へ行くのか?何故、死ぬのか?死ぬ運命なのにどうして生まれてくるのか?何時死ぬかもわからないのに、どうして毎日を平穏に生きられるのか?
 小学校2年生の時に、近所の床屋さんで見た本には、「殺戮」の絵が生々しく書かれていた。喋喋のように、まるで昆虫採集の虫のように串刺しにされた人間の死体が、「木に咲いていた」。あまりにも残酷なイメージに遭遇した自我は、その根底を覆させられる。ましてや自我の形成が始まったばかりで、死の意味さえわからない小さな時に、このような「心の傷」は、予測不能の事態をもたらす。


磔の蝶

れんげの匂いがたちこめる
おだやかな春の日
ふんわり
ふんわり
舞う蝶は
花をわたり
蜜をわたる

れんげの匂いがたちこめる
柔らかな春の日
ふんわり
ふんわり
舞う蝶は
いろとりどりの花をわたり
甘い甘い蜜をわたる

ふと
そこへ
黒い影が襲う
花の色さえ変える黒い影が襲う
春の日向さえ凍る黒い影が襲う

ちりちりという音が脳髄をしめつけ
真っ黒な煙がたちこめる
遠くI-YAHAAと
黒い影の声がする


昆虫採集の虫ピンはその巨大な針を煌めかせ
彼女の胸を深く貫くのだ
ああ
肛門から無惨にも貫かれたその杭の醜さよ
肉を引き裂き
腹を引き裂き
醜い汁をしたたらせ
彼女の美しい口さえも無惨に貫く

磔の蝶は
その美しい羽を
無惨に拡げられ
命のりんぷんを無惨に散らされ
美しい瞳には虚ろな死だけが宿る

裸の蝶は
悪魔の杭に犯され
辱められ
磔にされ
昆虫採集の冷たい箱に
巨大な最終箱のホルマリンに曝され
美しい骸さえも犯されるのだ

昆虫採集の虫ピンはその巨大な針を煌めかせ
彼女の胸を深く貫くのだ
ああ
肛門から無惨にも貫かれたその杭の醜さよ
肉を引き裂き
腹を引き裂き
醜い汁をしたたらせ
彼女の美しい口さえも無惨に貫く

時が静止し
生きたときが静止し
美しい蝶の記憶も
美しい恋の記憶も
全てがゼロになる

延々と続く沈黙
連綿とした
記憶のつながりの中で
意識された彼女もゼロになり

彼女が彼女であるという証拠もゼロになり
連綿とした記憶のつながりがゼロになる

彼女の記憶が彼女の記憶でなくなり
冷たい死の時間だけが過ぎていく

ああ
声を出させて欲しい
この杭を外して
声を出させて欲しい

どうどうめぐりの
思考のるつぼは
さらなる恐怖を呼ぶだけで

ああ
愛する人の姿を
思い出させて欲しい

ちりちりという音が脳髄をしめつけ
真っ黒な煙がたちこめる
遠くI-YAHAAと
黒い影の声がする

磔の蝶は
その美しい羽を
無惨に拡げられ
命のりんぷんを無惨に散らされ
美しい瞳には虚ろな死だけが宿る

裸の蝶は
悪魔の杭に犯され
辱められ
磔にされ
昆虫採集の冷たい箱に
巨大な最終箱のホルマリンに曝され
美しい骸さえも犯されるのだ


 人間は何故死ぬのか?死んだらそれで終わりなのか?死んだあとは延々と死の世界が続くのか?親に聞いても先生に聞いても答えは返ってこなかった。このままでは眠れない。どうにかしなければと気ばかりが焦るのだが、毎日がどうどうめぐりのあり地獄のなかのようだった。夕方になると敗北感と焦燥感はピークに達した。西の空に沈む美しい夕日さえも、死の象徴に見えたし、大きな柱時計の秒針は、一秒ごとに死に近づく惨めな存在をつきつけた。生きながらにして死刑を宣告されているのに、どうして笑顔で生きられるのかわからなかった。「死刑の牢獄」からどうすれば抜けられるのか?そればかりを考えていた。
 夢遊病は深刻さを増していた。意識がないのに、立って歩く。どうして生まれてきたのか?こんなに生まれてこなければよかった。母の胸に抱かれていても、母の姿は見えなかった。見えているのは死神の姿だけだった。
 宗教家にも医者にも見せたが解決には程遠かった。
「生霊に取り憑かれている」という者さえいた。


   (自著 「平和」の草稿より)